第一話 あの夏







夢を見た。頭がぼんやりとしていて、どんな夢を見ていたのか明確に覚えていないが、くすぐったいような懐かしさが胸を掠めた感覚は僅かに残っている。
 閉じられたカーテンから差しこむ光の幅が広いことから、十二時をとうに過ぎていることがわかった。微かに耳を擽る音楽。思い瞼をこじ開けて、視線を変えるとつけっぱなしのMDコンポがあった。
「起きたの?」
 奥のキッチンから、奈那子の声がした。
「ああ、今起きたとこ」
 奈那子が振り返ったと同時に、ふわりと柑橘の香りがした。シャンプーを変えたのか。いつもと違った匂いだった。
「よく寝てたわね、もうお昼過ぎよ」
 奈那子はそう言って、卵を割った。菜箸で生卵をかき混ぜる手つきや後ろ姿は、この半年で結構サマになってきたように思う。
 庭に植えてあるイチョウの木が色づき始めた頃から、奈那子と一緒に過ごす時間が重ね重ね増えていった。それはごく当然のように、直樹の生活にすうっと浸透していったように思う。まるで湖に沈む小石のように。僅かな波紋は生じたが、それは気にするほどのものでもなく、気付けば部屋にある生活用品は奈那子のものが半分を占めていた。多分、そういうものなのだろう。よくわからないけど。
「帰ったの遅かったからな」
 直樹はそう言うと、食卓の椅子に腰掛けた。目の前にはすでに一人分の朝食が用意されてあった。奈那子は結構料理が上手い。始めて手料理を作ってもらったとき、直樹はそれに素直に感嘆したが、彼女はそれしか特技が無いのよ、と笑った。
「始まったばかりだものね、大変ね」
 直樹は、市の外れにある中学校で英語教諭をしている。教わる立場から教える立場になって二年の月日が経過したが、まだまだわからないことだらけだ。生身の人間を相手にする職業は何かと気を使う。昨日は校内美化強化週間とかで、遅くまで点検のチェックに付き合わされたのだ。今日は土曜日で休みだが、顧問をしているサッカー部の生徒達の様子を見に行こうと思っている。
「まあ、すぐ終わるよ」
「今日も遅いの?」
「いや、顔出すだけだから遅くはならないよ」
「じゃあ、夕飯までには帰ってきてね」
「わかった。折角だから、今日は外食でもしようか」
「本当?」
「前行きたいって言ってたところあっただろう」
「うん、ありがとう、直樹」
 奈那子はそう言って、笑った。奈那子は笑うと頬下の辺りに円くえくぼができるのだ。そんなに童顔というわけでもない彼女に、あどけない幼さが覗けるのは、それのせいだろう。彼女は無邪気な女だった。よく笑い、よく喋る。屈託のない表情がころころと変わるから、見ていて飽きない。一緒にいて、楽だと思う。
「じゃあ行って来る」
「あ、直樹」
 ふと気付いたように、奈那子が声を荒げた。
「なに」
「今朝、あなた宛てに郵便が来てたわ」
 渡された白い葉書。裏には『同窓会のお知らせ』と丁寧な字で書かれてあった。微かに懐かしい匂いがした。葉書の送り主は、大屋隆。
「あなたが起きたら渡そうと思って。でもあなた起きたの遅かったから、すっかり忘れちゃってたの。ごめんなさい」
「ああ、ありがとう」
 気をつけてね、と奈那子は言い、キッチンに消えていった。多分、直樹が食べた後の食器を片付けるのだろう。直樹はそのまま振りかえることなく足を踏み出した。渡された葉書を手に持ったまま。
 直樹が住んでいるのは、1LDKのマンションだ。少し駅から歩くが、住みなれればそんなに悪いものでもない。マンションを出て、少し歩くとすぐ川原が見えた。昼間は学校がえりの小学生の子ども達がランドセルを放り出して、どろんこになりながらサッカーをしている。川原沿いには住宅街のせいかマンションや一軒家が立ち並び、夕暮れ時には夕食の支度をしている軒を連ねている家々から、おいしそうな匂いが立ち込めていて、なんだかひどく懐かしい気持ちになる。静かに揺れる川の水面のせせらぎを微かに感じながら、遠い昔のことを思う。
 ポーンと川辺のほうからサッカーボールが転がってきた。まぁるい、泥のついた古びたサッカーボール。それはやがて勢いを失い、弱弱しくなって直樹の足元へとやってきた。それと同時に聞こえてきたのは、元気な男の子の声。
 ふと、重なる遠い昔の記憶。蝉の鳴き声、川原のせせらぎ。学校のチャイム。使い古した木造校舎の匂い、そして、忘れることのないあの夏。







 人の賑わいも減ってきた、放課後の中庭。季節の変わり目を匂わす風が、そっと頬を霞めた。少しまだ湿気の残った、生暖かい風。さわさわと揺れる木の葉は、やがてふわりと宙を舞う。それに合わせて、コロコロと転がる古びたサッカーボール。
 直樹は、手を伸ばしてサッカーボールを寄せた。すうっと吸いつくように、手のひらに馴染む。ぽん、と跳ねさせたり、手のひらでくるくる回したり、とボールは自由自在に直樹の手のひらによって動作を変える。それが、余計に直樹を悲しくさせた。浮かぶのは、哀愁のある少し寂しげな瞳。
「よっ、直樹」
 聞き覚えのある声がした。チームメイトでありクラスメイトでもある隆だった。指で合図したのをきっかけに、直樹は隆にサッカーボールを渡した。ぽんっという小気味良い音が鳴った。隆の体をなめらかに滑り落ちるそれを見て、直樹はぽつりと呟いた。
「…くやしい」
「は?」
「あーっ、やっぱおれ悔しい!」
 勢いあまったサッカーボールは地に落ち、ころころと転がった。
「隆の顔見てると悔しい」
「え、俺のせい?」
「そうじゃないけどさ……」
「おれは満足してるけど」
「うそつけ」
「ちょっとうそかも」
「あーっ、あの時のあれ、ロスタイムの」
「ああ、おれのシュート?」
「あと十センチ下だったらなあ、あの時まるでスローモーションみたいだった。今でも夢に出てくるんだ」
「まだ言ってる。いいじゃん、四回戦行けたし」
「俺達の春は終わったなー」
「もう、夏だよ」
 ぽつりと小さく呟いた言葉が、中庭に切なく響いた。遠くのほうからサッカー部の後輩達の声が聞こえる。これからサッカー部の運営を担っていく、二人の跡を継ぐ活気付いた元気な声が、ほんの数ヶ月前の自分と重なった。少しだけ、鼻の奥が痛む。
「で、直樹はどうすんの、進路」
「ああ、内部進学」
「いやだったんだけどね」
「なんで?」
「何かいかにもマニュアル通りみたいで。隆は親父さんの家業継ぐの?」
 やんねえよ、と隆は少し呆れたように言う。
「なんでさ」
「なんでってお前、平成のロベルト・カルロスと呼ばれたこのおれがにんじんなんか売ってたらおかしいだろ」
「…それ、自称だろ」
 ぽんっと直樹がボールを投げる。勢い良く宙を舞って、青空と同化するそれ。いつのまにか雲は薄く低くなり、手を伸ばせば届きそうなところにある。
 ボールは隆の膝の上で踊り、くるくると回る。まるで一体化しているように。直樹は暫くぼんやりとそれを見ていた。ふと思い浮かぶ、最後の試合の一画面。そう、あの時も、ボールはくるくるとグラウンドを転がりまわっていた。楕円を描いたり、大きく反転したり。最後に直樹の目に焼きついたのは、試合終了を告げる、いやに耳障りなホイッスルだった。
「今日、お前行く?」
「あぁ、明んとこ?」
 大きく体をひねり、欠伸をする直樹。ぽつり、と行こうかなと呟いた。





◇ 管 理 人 か ら の 一 言 ◇


更新ほんまにほんまに遅れてごめんなさい!

マニュアルワールド第一話、更新です。

今回、ちょっとだけ違うのは明です。

さらにかっこよくリニューアルされてます。お楽しみに。 

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